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最悪に胸糞悪いのに最高に面白い。『世界99』

世界99 上巻の表紙 小説
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『世界99』という小説を読みました。上下巻に分かれた長い小説ですが、3日ほどで一気に読んでしまいました。

この小説は、一見すると現代社会の風刺のように見えます。インターネットやSNSによって分断されたコミュニティ、あるいはフィルターバブルやエコーチェンバーと呼ばれる現象を、SF的な設定に落とし込んだ作品として読むことができるからです。

しかし、読み進めていくうちに、読者はある罠にかけられていることに気づきます。
それは、物語の中の「愚かな人間たち」を俯瞰して笑っていたはずの自分が、実はその構造の一部である、という事実を突きつけられる瞬間です。

著者は巧妙な手口で、読者に「自分は賢い」という優越感を与えつつ、一方で「お前も同類だろう?」という冷ややかな視線を投げかけてきます。

今日は、この『世界99』という作品が持つ二重のメタ構造と、そこから見えてくる人間の本性について考えていきたいと思います。
一応、ネタバレが嫌な方は先に読んでから戻ってきてください。

分断された世界

この物語の最も特徴的な設定は、タイトルにもある通り「世界」がいくつにも分かれているという点にあります。ここで描かれる世界とは、物理的な並行世界というよりも、「認知や常識が異なるコミュニティ」のメタファーです。

現代社会において、僕たちは同じ国に住み、同じニュースを見ていても、全く異なる解釈をすることがあります。あるコミュニティでは英雄として称賛される人物が、別のコミュニティでは極悪非道な陰謀論者として扱われる。

あるいは、ある場所では誰もが知っている有名人が、別の場所では存在すら知られていない。そのような認識のズレが、この小説では「世界1」「世界3」といった形で可視化されています。

誰でも知っていると思っていたアーティストを、相手は知らなかった。という経験は、誰しも一度はあるでしょう。

例えば、ある世界で正義とされる行動が、隣の世界では犯罪として断罪される。これは僕たちが日々SNSで見かける光景そのものです。タイムラインが変われば正義が変わる。自分が信じている常識が、一歩外に出れば通用しない。著者はこの現代的な「分断」を、物語の基盤として非常に巧みに描いています。

僕たちは普段、自分とは異なる意見を持つ人々を見て、「なぜ彼らは真実が見えていないのだろう」と感じることがあります。この小説は、異なるルールで動く複数の世界を見せることで、読者はまず、デフォルメされた現代社会としてこの作品を楽しみ始めるのです。

「そうそう、世界ってそうだよね。わかるよ。”自分を使い分け”たりするよね」と、読者を「わかっている側」として扱います。

著者は読者に対して、「分断された世界を見下ろす観察者としての地位」を提供しているわけです。

世界を自覚的に使い分ける主人公への共感

物語の主人公は、この分断された世界の違いを理解し、自覚的に使い分ける存在として描かれています。彼女は、それぞれの世界にはそれぞれのルールがあり、絶対的な正義など存在しないことを知っています。その上で、状況に応じて振る舞いを変え、複数のコミュニティを渡り歩いていきます。

この主人公の姿に、僕たち読者はある種の自己投影を行います。つまり、現代を生きる我々もまた、相手や環境によって自分を使い分けることに慣れているからです。職場での顔、家族への顔、SNSの匿名アカウントでの顔。僕たちは無意識のうちに、それぞれの「世界」に最適化された自分を演じています。

そして何より、主人公の「世界の移動に自覚的である」という態度が、読者の自尊心をくすぐります。多くの人は、自分は他者よりもこの世界の構造をよく理解していると考えがちです。
「みんなは踊らされているけれど、自分だけは冷静に俯瞰できている」と思い込むことで、僕たちは精神的な安定を得ています。

この小説を読んでいるとき、読者は主人公と共犯関係になります。

  • 「そうなんだよ、世界って、そうだよね」
  • 「自分も主人公と同じように、この構造をうまく運用できている側だと思うわ」

という感覚です。そこには明確な優越感があります。

物語の中の、一つの世界に盲目的に閉じこもっている登場人物たちを見下し、自分は彼らとは違う「わかっている側」の人間であると思い込むことができます。この優越感は、読書体験を非常に心地よいものにします。

著者は意図的に、読者が「わかるわかる」と頷きながらページをめくるような構成を作り上げています。

自分が賢い人間であると再確認させてくれる物語ほど、気持ちのいいものはありません。しかし、この心地よさは、後に訪れる強烈なしっぺ返しのための予備動作です。僕たちが主人公に自分を重ね合わせ、高みの見物を決め込んでいる間に、著者は冷徹に次のフェーズへと物語を進めていきます。

他者の不幸を娯楽として消費するメタ構造

物語が進むにつれて、描かれる内容は次第に重く、不快なものへと変化していきます。いじめ、差別、自殺、性犯罪。人間の醜い部分、社会の暗部が容赦なく描写されます。これらは決して軽く扱われるべきテーマではありませんし、現実世界においては当事者にとって耐え難い苦痛を伴うものです。

しかし、この小説の中で、これらの不幸は奇妙な扱われ方をします。登場人物たちは、他人のトラブルや不幸を「程よく気持ちよくなれる娯楽」として共有し、消費している。誰かが転落する様子を見て噂話に花を咲かせ、許せない悪人を叩くことで正義感に浸る。そこにあるのは純粋な同情や義憤だけではなく、安全圏から悲劇を眺めることへの快楽です。

そしてここで、この小説の持つ最大のメタ構造が作動します。それは、作中の人物が他人の不幸を娯楽にしている様子を読んでいる僕たち自身もまた、その不快な物語をエンターテインメントとして消費しているという事実です。

僕は「胸糞悪い話だ」「なんてひどい人間たちだ」と眉をひそめながら、それでもページをめくる手を止められませんでした。なぜなら、その不快感が「程よく楽しめる」からです。完全に拒絶するほどの苦痛ではなく、安全な場所から覗き見る恐怖や嫌悪感は、脳を刺激する娯楽となります。

著者は、物語の中で主人公の変化を通じて「差別やいじめをする側は気持ちがいい」という残酷な真実を指摘します。そしてそれを読んでいる僕たちに対して、「お前も今、この惨劇を読んで気持ちよくなっているのだろう?」と問いかけてくるのです。

作中の登場人物たちが他人の不幸を消費しているのと同じように、僕たち読者もまた、この小説という虚構を通じて、人間の醜さをエンタメとして扱っている。その入れ子構造に気づいたとき、最初に感じていた優越感は、重く冷たい当事者意識へと変わります。

僕たちがワイドショーのスキャンダルや、炎上するSNSの投稿をつい追ってしまう心理と、この読書体験は地続きです。「許せない」と怒ること自体が、実は快感になっている。その人間のどうしようもない業を、この作品は小説という形を借りて暴き出しているのです。

読者に突きつけられる人間本来の性質

最終的にこの小説が突きつけてくるのは、人間という存在への諦めです。僕たちは普段、自分を理性的で道徳的な人間だと信じています。差別やいじめは悪いことであり、自分は決して加担しないと考えています。しかし、この本は語りかけてきます。

「本当にそうだろうか」。

物語の中で指摘される「人間は他人の不幸を楽しむ生き物である」という命題は、登場人物たちだけに向けられたものではありません。本を閉じようとしている読者自身に向けられた刃です。世界を俯瞰できているつもりでいた僕たちもまた、その泥沼の中で他人の不幸を摂取して生きている人間に過ぎないのだという事実。

著者は、この残酷な現実を糾弾するわけでもなく、かといって肯定するわけでもなく、ただ淡々と提示します。「自分だけは違う」という優越感を与えておいて、じわじわと梯子を外す。その手法は鮮やかで、痛烈です。

「不快な話を読んで不快になる」という当たり前の反応を超えて、「不快な話を読んで、その不快さを楽しんでしまった自分」に気づく。

それがこの『世界99』という作品が提供する体験だと感じました。

結論

この読書体験を通じて僕が考えたことは、自分の中にある「観察者としての傲慢さ」に自覚的でありたい、ということです。

僕たちは常に、自分だけは世界の構造を理解し、感情に流されずに正しく振る舞えていると考えがちです。しかし、そうした知的な優越感こそが、最も深い落とし穴なのかもしれません。他人の愚かさを分析して楽しんでいる瞬間、僕たちは既に、その「愚かな世界」の一部に取り込まれているのです。

『世界99』は、読者に「賢い自分」という夢を見せ、最後に鏡を突きつけて「醜い自分」を直視させる本でした。その不快な鏡を直視することにこそ、この本を読む価値があります。

自分の内側にある差別心や、他人の不幸を喜ぶ暗い欲望を自覚することは、決して心地よいことではありません。それでも、分断された世界を生きる上で、僕たちが持っておくべき最低限の誠実さなのかもしれません。

優越感と嫌悪感が入り混じる、複雑な読後感です。
だいぶ複雑ではありますが、読んで良かった本です。

今日は以上です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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