返事の来ないメッセージを前に、つい何度もスマホを開いてしまいます。
大事な連絡をしたのに、既読のまま半日が過ぎる。相手はどう思っているのか、断られるのではないか、自分の書き方が悪かったのではないか。分からない時間が長くなるほど、頭の中では勝手に結論ができあがっていきます。
漫画やドラマを見ていても、同じことをしています。登場人物のセリフの意味や、この先の展開、張られた伏線の回収方法が気になって、ついスマホで検索してしまう。考察や感想のまとめを読み、「なるほど、そういうことか」と納得してから、続きを見る。楽しみ方としては悪くないのですが、裏を返せば、自分の解釈が定まらない状態に耐えられず、誰かの用意した答えで帳尻を合わせているわけです。
考えてみれば、日常はこういう「分からない時間」でできています。週末の予定がなかなか決まらないこと、体調の小さな異変の正体が分からないこと、応募した結果がまだ来ないこと。どれも命に関わる話ではないのに、白黒はっきりしない状態が続くだけで、人は落ち着かなくなるものです。僕自身、そういう宙ぶらりんな状態があまり得意ではありませんでした。
そんな折に出会ったのが、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉です。今回は、この概念を扱った2冊の本を読み比べて考えたことを書いてみたいと思います。
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ネガティブ・ケイパビリティとは何か
ネガティブ・ケイパビリティは、詩人ジョン・キーツが1817年の手紙の中で述べた言葉です。「不確かさ、神秘、疑いの中に、事実や理由をいらだって求めることなくいられる能力」といった内容で、キーツはシェイクスピアをその典型としました。
その後、この言葉を拾い上げて広めたのが、精神分析家のウィルフレッド・ビオンです。ビオンは、分析家が患者と向き合うときに必要な資質としてこの概念を取り上げました。相手を分かったつもりにならず、結論を急がず、曖昧な状態に耐える。その姿勢が、かえって物事の本質に近づく道になる、という考え方です。
今回読んだ2冊は、同じ概念を扱いながら、立っている場所がかなり違います。
帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』——「耐える」ということ
精神科医である帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』は、臨床と日常の側からこの概念を描いた本です。
印象に残ったのは、次の一節です。
「この宙ぶらりんの状態をそのまま保持し、間に合わせの解決で帳尻を合わせず、じっと耐え続けていくしかありません」
間に合わせの解決で帳尻を合わせる、という表現が刺さりました。分からない状態は不快です。だから人は、手近な理由や結論に飛びついて、とりあえず「分かったこと」にしてしまう。でも、それは現実の複雑さを取りこぼす行為でもあります。
もうひとつ、好きな一節があります。
「早々と白か黒かの結論を出す必要がないのです。薄暮のようなグレーゾーンを持ちこたえているうちに、東の空が明るくなるのに気がつくのです」
耐えることは、ただ我慢することではないのだと思います。グレーゾーンを持ちこたえている時間そのものが、状況を変えていく。結論を出さないことは、放棄とは違う。帚木の本は、その「待つ力」のようなものを、医療や日常の具体的な場面から教えてくれます。
さらに本書では、キーツが典型としたシェイクスピアと並べて、紫式部が論じられています。帚木蓬生というペンネーム自体、『源氏物語』の帖名「帚木」と「蓬生」から取られたものだそうです。50年にわたって読み込んできたという『源氏物語』への思い入れが、この章には表れています。
帚木の読みでは、光源氏という人物は、美化された英雄と読むこともできれば、女性たちを翻弄する男と読むこともできる。どちらの解釈も本文から逸脱しない。紫式部は登場人物の心の動きをおびただしく描き分けながら、最後まで一つの評価に収束させませんでした。その「決めつけなさ」こそ、紫式部のネガティブ・ケイパビリティだというのです。千年読み継がれてきた物語の強さは、解釈が閉じないことにあるのかもしれません。
冒頭で書いた、ドラマや漫画の解釈をつい検索してしまう自分の癖を思うと、少し耳が痛い話です。物語を味わう時間の一部は、本来「決めないでおく」時間だったはずですから。
谷川嘉浩ほか『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』——「開いておく」ということ
もう1冊、谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』は、哲学や思想の側からこの概念を捉え直した本です。
こちらで中心になるのは、「改訂可能性に開く」という考え方です。自分の考えや意見、価値を、後からいくらでも書き換えられる状態に置いておく。いったん意見を持ったとしても、それを固めてしまわない。
本書には、鶴見俊輔の喩えが紹介されています。意見の持ち方は竹刀の持ち方のように、叩かれたら落としてしまうくらい、やわらかく握るのがよい、というものです。強く握りしめた意見は、反論されると折れるか、相手を叩くかしかできません。やわらかく握っていれば、落として、拾い直すことができます。
また、「急いで意見を持とうとしなくてもいい。ただ黙って観察する時期があってもいい」という一節も印象的でした。SNSでは、あらゆる出来事に即座に意見を持つことが求められがちです。その圧力に対して、この本は静かにブレーキをかけてくれます。
2冊を絡めると見えてくること
2冊を並べると、同じ概念の違う側面が見えてきます。
帚木の本が描くのは「耐える」力です。答えの出ない事態のただ中にいて、間に合わせの結論に逃げず、その場を持ちこたえる。一方で、谷川ほかの本が描くのは「開いておく」力です。出した結論や意見を確定させず、改訂の余地を残しておく。
入り口は違いますが、向かっている方向は同じです。どちらも、「分かったつもり」になることへの警戒だと思います。
ちなみに、この感覚は最近読んでいる千葉雅也『現代思想入門』の話ともつながります。デリダの言う「決定不可能性」、つまり意味の確定は延期され続けるという考え方や、ドゥルーズの「生成変化」、固定した枠組みに回収されず生成の途上にあり続けるという考え方は、ネガティブ・ケイパビリティと響き合うものがあります。決められないことを欠陥とせず、むしろ豊かさとして引き受ける姿勢です。
自分の暮らしでの使い方
僕は今年、この「ネガティブ・ケイパビリティ」を自分のテーマのひとつに置いています。
実践として意識しているのは、原理的に分からないことを、判断の軸にしないということです。たとえば、相手が感謝しているかどうかは、相手の内面のことなので、確かめようがありません。分からないことを軸にすると、自分の行動まで不安定になります。分からないものは分からないまま置いて、自分のやるべきことをやる。それが、いまの僕なりの使い方です。
もちろん、仕事の現場では結論の速さが求められる場面も多く、全部を保留にできるわけではありません。それでも、「いま出したこの結論は、仮のものだ」と心のどこかで思えているだけで、判断の質は変わる気がしています。
結論
答えの出ない事態に耐える力は、特別な才能ではなく、姿勢の問題なのだと思います。
白か黒かを急がないこと。出した結論も、やわらかく握っておくこと。この2冊は、その姿勢を、医学と哲学という異なる入口から教えてくれました。
分からない状態は、いまも得意ではありません。それでも、グレーゾーンを持ちこたえる時間に意味があるのだと知っているかどうかで、日常の景色は少し変わります。
思えば、いまは「早く分かること」が評価される時代です。何でもググればすぐに答えが出て、仕事では即答が求められ、分からないままでいることは能力の不足のように扱われます。僕自身、ドラマの解釈まで検索に頼っていたくらいです。
そんな時代だからこそ、「分からなくてもいい、分からない状態のままでもいい」という感覚は、一種の救いになるのだと思います。デジタルデトックスが情報から距離を取ることで心を休ませるものだとすれば、ネガティブ・ケイパビリティは、答えの出ない状態そのものを受け入れることで、心に余白を残しておく実践だと言えるかもしれません。
今日は以上です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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