はじめに
スポーツの練習や楽器の練習では、コーチや先生に教わったことにチャレンジしては、うまくいったりうまく行かなかったり、いろいろな結果を経験しますよね。
練習風景を見ていても、1回教わったことがすぐにできる生徒ばかりではないはずです。
1回やってみて、うまく行かなかったら、先生からフィードバックを貰ったり、手本を見せてもらったりして、再チャレンジです。
楽器やスポーツの練習では普通のことです。
一方で、メンタル面や考え方を変えていくことについては、1回で出来るのが当たり前だと思っている人が多くいます。
1回教わっても定着しなかった、1回本を読んでも自分に落とし込めなかった。
自分にはこの本は向いていない、ムズカシすぎると。
今回紹介する「嫌われる勇気」は、1回読んで感銘を受けたぐらいで実践できるような内容ではありません。アドラー心理学を本当に理解して自分のライフスタイルに取り入れるには、「それまで生きてきた年数の半分」がかかると言われています。
スポーツや楽器の練習と同じように、なんども失敗と成功を繰り返しながら学んでいくものである、その前提で、本書とは向き合うのが良いでしょう。
今回は、改めて読みなおした「嫌われる勇気」の後編を紹介していきます。
二行要約
- アドラー心理学の鍵概念「共同体感覚」を得るためには、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」が必要である
- 人生は連続する刹那である。一瞬一瞬をダンスするように、「いま、ここ」を真剣かつ丁寧に生きることが大切である
共同体感覚
アドラー心理学の鍵概念でもあり、アドラー心理学を学んでいた人たちにとっても賛否両論が分かれ、多くの弟子たちが離れていったとされる「共同体感覚」。
理解して受け入れるかはさておき、まずは概要を見てみましょう。
共同体感覚をもつことの反対は、自己中心的であること
共同体感覚を理解するためのひとつめのヒントは、正反対の人物をイメージすることです。
自己中心的な人
日本語で「共同体感覚」という概念は、英語では「Social interest」と言います。
これは直訳すると「社会への関心」で、その対義語は「Self interest(自己への関心)」になります。
自己への関心とは、すなわち自己中心的であるということです。自己中心的な人として一般的に想像されるのは、
- 横暴な人
- 人の言うことを聞かない人
- 協調性がない人
などが挙げられると思いますが、アドラー心理学では、
- 他者の評価ばかり気にする人
- 承認欲求に支配されている人
- 周囲の全員に好かれようとしている人
上記のような「課題の分離」が出来ていない人も、自己中心的であると言っています。
自己中心的になってはいけないわけ
自己中心的な人は、自分以外のコントロールできないことに注意を引かれてしまい、自分の自由を手放して生きることになります。
例えば、他人の評価を常に意識しているインフルエンサー。
このひとは自分のコンテンツがどうすれば全員に好かれるかばかりを考えています。
結果として、一番伸びるコンテンツや周囲からの評判が良い投稿ばかりを追い求めるようになります。
その結果、フォロワーは増えるかも知れません。
しかし、この人は本当に自由なのでしょうか?
周囲が自分のことをどう思うかは、周囲の人の課題です。その課題に介入するような態度、すなわち「受けるものだけを作る」という態度は、自分の創造性を捨てて他者の価値観で生きることであって、自由な生き方とは言えません。
例えば、部下全員に好かれたいと願う上司。
この人は、部下全員から好かれる上司こそが理想の上司だと信じています。
部下の悩みにも真摯に向き合い、部下全員を大切にしてきました。
しかし、部下全員に対して平等に、全員の望みを叶えることなどできません、
一部の部下は、優しい上司につけいり、自分の仕事を減らしてもらったり、他の人に仕事を降ってくれるようにアプローチをかけてきます。
また別の部下は、その様子をみて「あいつだけを贔屓しているのは良くないからやめてほしい」と不満をつのらせます。
やがて、部下全員の望みを聞こうとした上司は、八方美人な振る舞いから部下の信用を失い、部署の成績は下がる一方です。
何がいけなかったのか?それは、上司が「好かれたい」という自分の欲を優先していたからに他なりません。
「好かれるのが良い上司」という言い訳をしながら、その実は「自分が好かれたい」だけだったわけです。
部下が上司を好きでいるかどうかは部下の課題であって、上司が決定することではありません。
上司は自分の責任の範囲で、部下から嫌われる勇気を持って、やるべき仕事を愚直にやるべきだったのです。
周囲への関心
Self interest(自己への関心)から共同体感覚(Social interest)に至るためには、読んで字の如く、社会に関心をもつことが必要です。
この場合の社会とは、いったいどこのことを指すのでしょうか。
もっとも小さな社会への関心
もっとも小さな社会は、「わたしとあなた」の2人から構成されます。
あなたとわたしという社会において、自己中心的な人は「あなたはわたしに何をしてくれるのか?」を考えています。
一方、共同体感覚を持つ人は、「わたしはあなたに何をあげられるか?」ということを考えています。
幸せの正体は「貢献感」
わたしはあなたになにをしてあげられるだろうか?
そう考えることは、なにも滅私奉公の精神を表しているわけではありません。
ひとは社会に貢献することを通して、「わたしはここにいて良いのだ」という実感を得るために生きています。これを貢献感と言います。
この貢献感を得るために、人は仕事をしたり、他のひとのために行動します。
貢献感を得るための誤った近道
貢献感を得るための最も安直で間違った方法が、世の中には蔓延しています。
「承認欲求に支配される」「他者の評価に頼る」ということです。
これらの方法が良くない理由は、他者の評価というものは自分にはコントロールできない他者の課題であって、そこで仮初の貢献感を得るために、他者のための人生を選ぶことになります。
ほんとうに幸せに生きるためには、
自由な生き方を選び取りながら、貢献感を得る必要があります。
そのために、課題を分離し、人に嫌われることを恐れず、自分の課題に集中しながら共同体に貢献することが必要なのです。
自己受容、他者信頼、他者貢献
自己受容
わたしはわたしである。そのままのわたしを認めること
自己受容と似た言葉に「自己肯定」という言葉があります。
この2つはよく似ていますが全く異なるものです。
たとえばテストで60点をとった時、
- 自分は本当はこんなものではない、本気を出せば100点が取れるんだ!と考えるのが、自己肯定
- いまの自分は60点だった。どうすれば100点に近づけるだろうか?と考えるのが、自己受容
他の人になりたいと思っても、他の人の人生を歩もうと思っても、それは無理です。わたしはわたしでしかない、交換できないものです。
そのことを受け入れて、与えられたものをどう使うか?をただ受け入れることが自己受容です。
自己受容の側面の一つとして、「肯定的な諦め」という考え方があります。
諦めるとはネガティブな意味ではなく、本来は「明らかに見る」の意味であり、対象をありのままに見て理解することです。
これを理解するのにもっとも有名な言葉のひとつが、ラインホルド・ニーバーの祈りと呼ばれるものです。
神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ。
ラインホルド・ニーバー
他者信頼
共同体感覚を得るための2つ目の重要な要素が、他者信頼です。
信用と信頼の違い
信用は、条件付きで信じること
信用という言葉は、担保や実績で相手を信じる考え方です。英語でいうとクレジットです。
つまり、相手がコレをしてくれるなら信じましょう、相手が裏切らないのであれば、わたしはこれを与えましょう。という条件付きの態度です。
土地を担保に融資をする銀行や、なんらかの見返りを期待して人助けをすることは、信用の考え方です。
信頼は、無条件に信じること
「信頼」とは、無条件に相手を信じることを言います。
本書内では、「無条件に信じて、裏切られたらどうするのだ!!!」と青年は怒ります。
そこへ哲人は「それでもなお、信じるのです」と語りかけます。
なぜリスクを負って信じる「信頼」の態度が大切なのか。哲人の解説はこうです。
信頼の対義語は「懐疑」です。
懐疑的な態度は、かならず相手に伝わります。
相手が自分を疑っているという状況では、深い関係を築くことはできません。
たとえば、恋人の関係。
相手が自分に隠れて浮気をしているのではないか?と疑いはじめると、事実がどうであれ、浮気の証拠は大量に見つかります。
ちょっとしたそっけない態度、連絡がつかない時間、誰かと電話で話している口調、頻繁にスマホにくる通知など、疑いの目を持って見ればあらゆることが浮気の証拠として映ります。たとえ事実がどうであったとしても。
つまり、他人と深い関係を築くためには、リスクをとってでも信頼をする必要があるのです。
アドラー心理学の考えはシンプルです。あなたはいま、「誰かを無条件に信頼したところで、裏切られるだけだ」と思っている。しかし、裏切るのか裏切らないのかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。「相手が裏切らないのなら、わたしも与えましょう」というのは、担保や条件に基づく信用の関係でしかありません。
他者貢献
共同体感覚を得るための重要な要素の最後の1つは、他者貢献です。
仕事の本質は「他者貢献」
世の中には、信じられないほどの大金を手にしてもなお、働き続ける人がいます。また、一生かけても使い切れない金を稼いだあと、その金で慈善事業をはじめる富豪がいます。
彼らはなぜ働くのか?それは、「自分はここにいてよいのだ」という貢献感を得るためです。
仕事は本来、お金を得るための手段である以前に、貢献感を得るための手段であるといいます。
他者貢献をするためには、自己受容と他者信頼が必須
共同体感覚を得るためには他者貢献を行う必要がありますが、自己受容と他者信頼がない状態では、単に「自分を犠牲に他者に尽くすのが正しい」といった誤った理解に到達することがあります。
もし自己受容がなければ
ありのままの自分を受け入れることができず、他者の評価に頼るしかなくなります。他者の評価を優先し、他者の為に生きることになります。
また、自分の価値を不当に低く見積もったり、いま自分が何もしないことを過去のトラウマのせいにしたりするので、今更こんな自分が他者貢献をしても意味がない、自分だけが変わってもしかたないといった、自分がコントロールできない結果に対して執着してしまうことになります。
もし他者信頼がなければ
他者に裏切られることを常に心配し、裏切られないように注意を払って行動します。その結果、貢献するはずの仕事をしていても「自分のした仕事の給料は払ってもらう」「こんなに頑張っているのだから、会社はわたしに報いるべきだ」といった考えが徐々に頭をもたげてきて、幸福に生きることはできません。
もし自己受容と他者信頼があれば
自分の価値を信じながら、他者を信じることを恐れずに信頼を寄せる態度。
これを言い換えると、相手を仲間として認めることになります。
もちろん、仲間が裏切ることはあるかも知れません。
しかし、仲間がわたしを裏切るかどうかはその相手の課題であって、
本来自分から介入できる問題ではありません。
正しく他者貢献をするために
自分を認め、相手を信頼し、仲間だと認めた上で接することで良好な関係を築きながら、
仕事を通して「ここにいていいんだ」という貢献感を得ることができます。
つまり、他者貢献とは、自分を犠牲にして他者に尽くすことではなく、むしろわたしの価値を実感するために行うことである、とも言えます。
3つの要素は循環する
自己受容で自分のことを認め、他者信頼で無条件に信じることを決め、他者貢献のサイクルに乗ることができれば、他者貢献を通して自分の価値を認め、さらに他者への信頼を深めることができます。
世の中の社長や成功者で、手痛い裏切りにあってもめげずに挑戦を続け、かけがえのない仲間を得ている人はたくさんいます。
自己受容→他者信頼→他者貢献というサイクルは一度始めることができれば、自分でそれを捨てる選択をしない限り、自分の人生に幸せをもたらすヒントを与えてくれます。
あなたが始めるべきだ
アドラー心理学は、「相手がどうであれ、過去がどうであれ、自分が変わるのだ」という側面をもっています。そんな中で実践を阻むのは、周囲の人たちの協力や理解が得られないことでしょう。
同じ問題は昔からあって、一貫してアドラーはこのようにアドバイスしています。
「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」
周囲が協力的であるかどうかは、周囲の課題です。あなたが変わることでしか、あなたの世界は変わらないのです。
人生は連続する刹那である
過去も未来も存在しない
アドラー心理学では、過去も未来も存在せず、今ここを真剣に生きることを勧めています。
実際、過去の出来事というのは個々人の認識の中にしか存在せず、認識の中にしか存在しないということは、捉え方次第で過去の意味は変えることができます。そんな過去に囚われて今の生き方を決めてしまうのではなく、今どうするのか?を考えるべきだといいます。
キーネーシスとエネルゲイア
人生を線と捉える、キーネーシス
人生をひとつの線として捉え、大きな坂を登っていくような捉え方をすることを「キーネーシス的(動的)な生き方」と表現します。
「将来の夢」「老後に向けて貯蓄」「目標に向かって努力」など、キーネーシス的な生き方を勧める風潮は一般的に存在しています。
目標をたてることが悪いことではありませんが、目標に向かっている今を「単なる途中である」と考えるこの生き方は「将来のために今を犠牲にする」という考え方にも繋がります。この姿勢をアドラーは「今に真剣に向き合っていない」として否定します。
人生を連続する点と捉える、エネルゲイア
一方で、人生を連続する一瞬一瞬であると捉えて、その瞬間に集中することをエネルゲイア的(現実活動態的)な生き方と表現します。
成功者は「今」を犠牲にしてきたのか
たとえば音楽やスポーツで大成した人は、大成するために日々を犠牲にしてきたのでしょうか?
実際に大成した人は、1日1日の練習や生活を真剣に生きていて、「その日の取り組みの中で出来たこと」を毎日積み重ねて、気づけば遠くに着ていた、という方が多いハズです。
「いま、ここ」を生きる
人生を、目的地にたどり着くための「単なる移動」ではなく、「旅」であると捉えるとわかりやすくなります。
たとえばあなたはエジプトに旅行したとして、クフ王のピラミッドに最短距離で到達し、そのまま最短距離で帰ってこようとするでしょうか?
そんなものは旅とは言えません。家を一歩出た瞬間からそれは旅であり、何らかの理由でピラミッドにたどり着けなかったとしても、旅をしなかったことにはならない。
これがエネルゲイア的な人生です。
ダンスするように生きる
ダンスには目的地がありません。
最後のポーズを決めるために途中の動きはどうでも良い、ということにはなりません。
一瞬一瞬の動きに気を配り、曲に合わせ、ときに一緒に踊る相手に合わせ、その瞬間瞬間の一挙手一投足に気を配り、気づけば曲は終わりに差し掛かっている。
楽しかったな、とダンスを振り返るとき、そこに残るのはダンスの結果ではなく、ダンスを踊ったという過程と、そこで感じた感覚でしょう。
このように、存在しない過去や未来ではなく、「いま」を真剣に生きることを、アドラーはすすめているわけです。
あと語り
わたしは楽器を演奏して、お客さんの前で演奏する機会をいただくことも少なくない回数ありました。
そんなステージでの演奏会を終えたとき、「本当の本番は、練習期間だった」ことに気づいた時期があります。
演奏活動やスポーツの大会など何でもそうですが、本番というのはとても短いものです。
数ヶ月、数年間と練習してきたものを実際に披露するステージの時間は、せいぜい数時間で終わってしまいます。
ひとによっては、数分間の演奏のために1年間を費やす人もいるでしょう。
本番のステージに乗って、幕が上がり、
次に気がついたら最後の曲が終わりかけている。
なんてことはザラにあります。
「本番を迎えるために長い時間をかけて、毎日のように準備をしてきた時間が一番楽しかった」という感想は珍しいものではありません。
終わってから振り返ると、練習期間には「本番を良いものにする」とか「試合で絶対に勝つ」とか「本番でこの技を成功させる」とか、そういったキーネーシス的な感覚で動いているつもりだったとしても、
毎日、その場その場で「できたり、できなかったり」を繰り返しながら、少しずつ進んでいくさまは、たしかにエネルゲイア的な取り組みであったと気がつきました。
その一瞬一瞬で出来ることに集中して生きてきた結果が、「練習期間が本番だった」ということばに集約されます。
ダンスをするように生きるのです、と説く哲人の言葉を読みながら、演奏活動を通して得たあの感覚に説明がついたような気がして、腑に落ちる思いがしました。
結局は、「いま、ここ」を大切に、真剣かつ丁寧に生きるしかないのだと考えさせられます。
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